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『武士道』いつか読んでみたかった日本の名著シリーズ② 致知出版社

23.10.05



日本という国は、

サムライによって

つくられてきました。

彼らは国家の花であっただけでなく、

根でもあったのです





これは、本書カバーの裏書の言葉ですが、宗教教育が行われていない日本人の道徳観の根源には
武士道の精神が脈々と流れているのではないでしょうか?
本書の目次にそって、各章の要諦となる部分をご紹介させていただきます。




第1章 武士道とは、生きるための道である

◆武士道とは「桜」
武士道は、我が国の「桜の花」と同じものです。
それは日本の土壌で生まれ、今なお我が国の特徴を象徴している、固有の花に他なりません。
決して、ひからびた標本となって保存される類いの、歴史遺産ではないのです。

武士道は現在もなお、力強さと美しさをもって、私たちの中に生き続けています。
姿や形こそ見えなくても、「武士道」という言葉が醸し出す道徳的な芳香は、
私たちがいまだそれに影響を受けていることを思い出させます。
武士道を生み、育んできた社会状況は、すでに消えて久しくなっています。 しかし、
かつて存在していた星々のきらめきが夜空を照らすのと同様に、武士道は今も私たちの
頭上に光り輝いているのです。





第2章 武士道の源流

◆仏教と神道がもたらしたもの

まずは仏教から始めてみましょう。
仏教は武士道に対し、運命にすべてを委ねる穏やかな感覚や、避けられないものに
対しても冷静に従う強さをもたらしました。 それは危険や災難に出合っても厳格なまでに
落ち着き払い、生を軽んじて、死に親しむような姿勢に反映されています。

有名な剣術の師匠 柳生宗矩は、彼の生徒がその奥義を習得したのを見たとき、
彼に向かっていいます。
「もうこれ以上、お前に教えることはない。あとは禅に学びなさい」
「禅」とは「ディアーナ」の日本語訳であり、「瞑想を通して言葉による表現を超えた
領域に到達しようとする人間の試みを表現した」ものです。

その方法は沈思黙考であり、禅の目指すところは、あらゆる現象の根源にある原理を悟り、
自分自身をこの世の絶対的な存在と調和させることだと私は理解しています。
そのように定義すると、禅の教えはもはや一宗派の教義を超え、
すべての人間に「絶対的な存在」を知覚させ、自分自身を世俗的な事柄から切り離し、
「新たなる天と地」の世界に気づかせるものなのでしょう。

仏教が武士道に与えられなかったものは、神道が十分に補ってくれました。
主君に対する忠誠、先祖に対する崇敬、親に対する孝行は、他の教義が教えなかったものであり、
神道の教義から導入されます。 これによってサムライの傲慢な性格は抑制され、
代わりに忍耐強さが加わったのです。
神道の教義に、キリスト教でいう「原罪」の観念はありません。
逆に神道は、人間生来の善性を信じ、人間の魂を神のように正常なものととらえ、
ときに魂を「神の意志が神託として述べられる場」として崇敬します。






第3章「義」あるいは「正義」

◆「義」は正義に基づく決断の力

ここではサムライの掟の中でも、最も厳しいものであった教訓を取り上げましょう。
サムライにとって卑劣な行動や不正な行為ほど、忌むべきものはありませんでした。

ここで紹介する「義」の観念には、誤ったところがあるのかもしれません。また狭苦しく、
窮屈に過ぎるのかもしれません。

有名な武士、林子平は、義の観念を「決断の力」と定義し、次のように述べています。
「義は勇の相手にて裁断の心なり。道理に任せて決心して猶予せざる心をいうなり。
死すべき場合に死し、討つべき場合に討つことなり」
孟子は「仁は人の心なり、義は人の路なり」といい、さらに「その路を捨てて由らず、
その心を放って求むるを知らず、悲しいかな。人、鶏犬の放つあらば即ちこれを求むるを知る、
心を放つあるも求むるを知らず」と嘆いています。






第4章 勇、すなわち勇敢で我慢強い精神

◆「死すべき時に死する」が真の勇

勇気は、義のために行使されるのでなければ、美徳としての価値はないとされてきました。
孔子は『論語』の中で、よく用いている否定的な論法で勇気の定義づけをしています。
それは「義を見てせざるは勇なきなり」というもの。
この格言を肯定的に言い直すならば、「勇気とは正しいことをなすことである」となるでしょう。
あらゆる危険を冒し、命を懸けて死地に飛び込むことは、よく勇気と同一視されます。
そして武人たちの職業において、シェイクスピアが「勇気の私生児」と呼んだ向こう見ずな
行為が、不当に賞賛されることはありました。
しかし武士道においては、そうではないのです。
その価値に値しない死は、「犬死に」と呼ばれました。
「戦場に駆け入りて討死するはいとやすき業にて、いかなる無下の者にてもなしえらるべし。
生くべき時は生き、死すべき時に死するを真の勇とはいうなり」
こう述べたのは水戸藩の義公(徳川光圀)でした。
プラトンの名前すら聞いたこともなかった義公ですが、彼は「恐れるべきものと、
恐れてはならないものを区別する知恵こそ真の勇気」と定義したプラトンと、まったく同じ結論に
達していたのです。






第6章 礼

◆最も効率的で、最も優美、それが「礼」

礼儀正しさとマナーのよさは、日本を訪れたあらゆる外国人の旅行者が気づくことのようです。
ただ、もし「上品であるという評判を落としたくない」というだけで実行されるのであれば、
礼儀というのは大した徳質ではありません。
本当の礼儀とは、「他者の感情を思いやる心」が目に見える形で表れたものでなければならない
のです。
礼儀はまた、社会的な地位といったような、物事の道理を尊重するものでもあります。
社会的地位といっても、それは貧富の差に基づくようなものではなく、実際的なメリットを
考えた上で、「この人をもっと敬うべきか」「ほどほどにしておくべきか」などと判断される
ようなものでしょう。
しかし最高の形を考えれば、礼というのはほとんど愛に近いものになります。
私たちは敬虔な気持ちで、「礼は寛容にして慈悲あり、礼は妬まず、礼は誇らず、
驕らず、非礼を行わず、己の利を求めず、憤らず、人の悪を思わず」といわねばなりません。

ディーン教授(アメリカの動物学者)は人間性の六つの要素をあげていますが、
社交上の最も成熟した果実として、礼に最も高い地位を与えていることを疑問視する人はいないでしょう。





いつか読んでみたかった日本の名著シリーズ②『武士道』
著:新渡戸稲造 現代日本語訳:夏川賀央 より一部抜粋




本書は今から11年前の平成24年9月に第一刷が発行されました。
新渡戸稲造というと、昭和59年に発行された5000円札の肖像になった人物として知られていても、
武士道の著者だとは知らない人も多いのではないかと思います。
挨拶が出来ない、敬語を含め正しい日本語が話せない。平気で空缶やゴミを捨てる。
公共交通でのマナーを守らない、というような品のない日本人が増えているような気がしてなりません。
かつてアインジュタインは「日本人の素晴らしさは躾や心のやさしさにある。」と日本人を評しました。
本書はその日本人の素晴らしさの原点は己を磨く「道徳」と「修身」と説く「武士道」を現代人にも
わかりやすいように解説されています。
「仁・義・礼・智・信」日本人が忘れ失いかけている精神を見直し、品格のある生き方とは何かを
考えてみたいと思います。