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てれほん教話 「聞こえまっか」第六十四集より

23.07.05

私が30年近く、毎月参拝させて頂いております、
大阪市東住吉区の金光教木津教会の「てれほん教話」は
縁のある方々の信心の糧、心の力となることを願って発信されていらっしゃいます。

第六十四集の中から私の心に響いたお話をご紹介させて頂きます。



テレフォン教話「喧嘩が起こる訳は」 より



『我よしと思う心を仇として
戦いていけ 日ごと夜ごとに』


何故、私たちは「怒り」を他人にぶつけ、人を傷つけたり、争ったりしてしまうのでしょうか。
このことは、二人の人間が喧嘩をしている状態を考えると分かりやすいものです。
喧嘩が起こるのは、ひとりが「自分が正しい」と思っているところに、もうひとりが
「自分のほうが正しい」と主張するところに起こります。
お互い「自分のほうが正しい」と思い込んで相手に向かうものですから、相手の言い分を
まともに聞くことが出来ないのです。
そうして、相手の言い分をまともに聞けないために、お互いの溝がどんどん深まっていき、
最終的には「怒り」の感情をあらわにした挙句、自ら人間関係を壊してしまうのです。
結局のところ、元を辿れば「自分のほうが正しい」と思うその心がそもそも正しくない。
間違いなのです。
もしここで、「自分のほうが正しい」と思わないことが出来れば。いや、少なくとも
「相手も正しいかもしれない」と思うことが出来れば、相手の言い分をよく聞けるようになり、
まったく違う道が見えてきます。
そもそも、「相手の言い分をよく聞かない」というのが喧嘩の面目ですから、
「相手の言い分をよく聞く」という喧嘩などは起こり得ません。
加えて、言い分をよく聞いてもらって怒る、ということも起こり得ないのです。
お互いに相手の言い分をよく聞き、ものごとを冷静に、客観的に見ていけば、
実はただそれだけですべてが解決してしまうことがほとんどなのではないでしょうか。
我よし、自分は正しいと思う心こそが自分の敵なのです。その思い違い、心得違いと
戦っていくのが信心なのです。
「自分の方が正しい」と思わない稽古を共々に進めさせて頂きましょう。






二ヶ月に一度家内と共に診察をして頂いている、京都伏見区の堀田忠弘先生から
「魂」の浄化の大切さを教えて頂きました。

1) 神様はすべてを許せる。(実体がないものは許すも、許せないもない)
2) 自分を正当化しない。(記憶は消去、正当化も消去すれば心が広くなる)
3) 人間は自分との闘い(人を裁くことは出来ない)





テレフォン教話「あたりまえ」 より



悪性腫瘍のため右足を切断し、三十二歳の若さで亡くなられた医師、
井村和清さんの「あたりまえ」という詩をご存じでしょうか。

あたりまえ こんなすばらしいことを、
みんなはなぜよろこばないのでしょう
あたりまえであることを
お父さんがいる お母さんがいる
手が二本あって、足が二本ある
行きたいところへ自分で歩いてゆける
手をのばせばなんでもとれ
音がきこえて声がでる
こんなしあわせはあるでしょうか
しかし、だれもそれをよろこばない
あたりまえだ、と笑ってすます
食事がたべられる
夜になるとちゃんと眠れ、そして又朝がくる
空気をむねいっぱいにすえる 笑える、泣ける、
叫ぶこともできる、走りまわれる
みんなあたりまえのこと こんなすばらしいことを、みんなは決してよろこばない
そのありがたさを知っているのは
それを失くした人たちだけ
なぜでしょう あたりまえ


「感謝」という言葉の反対語は「当たり前」である、と言われます。
一日一日、日は経つ。夜が明けて日が暮れる。毎日が同じことの繰り返しのように
思われるのですが、決して同じではない。当たり前ではない。
何事も慣れてきますと、その一番大切な「当たり前ではない」という思いが抜け落ちる。
一日一日、その時その時が有り難いのだという思いが抜け落ちるのです。それでは台無しです。
一番大切なことは、一日一日、その瞬間その瞬間を感謝の気持ちで過ごさせて頂く。これに尽きます。
朝起きたならば、昨日まで言ったことのない、よい「おはよう」が言えるような私にならせて頂く。
毎日の仕事や交際の上に感謝が抜け落ちぬよう、感謝を現せる自分にならせて頂けるようにと
手を掌わせる。それが、信心させていただくということであり、道に生きるということなのです。






私が社員と家族に紹介させて頂いております「今日の言葉」の中で、
東洋思想家、境野勝悟さんは
「自分の人生を充実させていくのは、親でもないし、先生でもないし、環境でもない。
自分自身が感謝する心を持てるかどうかだ」
とおっしゃっていらっしゃいます。




テレフォン教話「人間の喜びとは」より




ある雑誌の中で、中学校の教師が生徒との次のようなやり取りを載せておられました。

「先生、勉強って何でしないといけないのですか?お母さんが勉強しろ、
勉強しろってうるさいんです」
「そりゃ、勉強しないと、良い学校に入れないよ」
「良い学校へ入って、何をするんですか?」
「そりゃ、卒業して立派な社会人になるんだよ」
「立派な社会人って、何ですか?」
「そりゃ、立派な家に住んで、幸せになるんだよ」
「つまり生活を楽しむってことでしょう」
「うん、まあそういうことになるね」
「そしたら僕、今でも勉強しない方が生活楽しいから、勉強はしません」

生徒からこのように言われて、その教師は返事が出来なかったとありました。
さて、皆様でしたらこの生徒にどのような言葉をかけられるでしょうか。
私はこのお話を読ませて頂いて、はて、人間の喜びとは、自分が豊かな生活を送り、
楽しむことにあるのだろうかということを思わせて頂きました。
考えてみますと、私たちは生まれてから今日に至るまでに何度、皆から「おめでとう」と
言われてきたことでしょうか。
生まれた時、本人は何も知らないのに、皆がおめでとうと喜んでくれる。小学校へ入る時もおめでとう、
卒業する時もおめでとうと喜んでくれる。中学校の時、高校の時、結婚する時も同じです。
皆、おめでとうと喜んでくれる。このように「おめでとう」というのは、自分一人だけのものではないのです。
自分の喜びが、自分だけのものでなく他人の喜びとなったときに皆が喜び合う。それが、めでたいということ
であり、人間の喜びは実はここにあるのです。
人のお世話になって生きているのが人間ですから、人のお役に立つ為、人の喜びの為に人は勉強するのです。
そして自分に恵まれた力を最大限発揮し、より人のお役に立つ為に、自分にとってより良い学校、
より良い会社に入らせて頂くのです。
人間の喜びとは決して自分だけのものではありません。真に教養のある人とは、
自分の喜びを他人に分けてあげられる人のことを言うのです。






木津教会の「信仰理念」にこのような言葉があります。

・人の痛み苦しみが我が事のように思え
・人の喜びを我が事として喜べる心
・物の有難さもったいなさがわかる心 世話になるすべてに
礼を言う心が豊かな信仰心である。