最新情報

『人間における運とツキの法則』藤尾秀昭

23.02.01

運の重要さについては、何度も取り上げさせていただいてますが、
月刊『致知』が44年間に取材させていただいた人たちに共通して
いるのは、遭遇した逆境、困難を運とツキで乗り越えていることです。
では、その人たちはいかにして運とツキに恵まれたのか。
そのヒントを記事にした中から選んだのがこの小篇です。












その一、運とツキの法則



人生に運とツキというものは確かにある。
しかし、運もツキも
棚ぼた式に落ちてくるものではない。
『安岡正篤(まさひろ)一日一言』に
「傳家寳(でんかほう)」と題する一文がある。
ここに説かれている訓えは全篇これ、
運とツキを招き寄せる心得といえるが、
その最後を安岡氏は
「永久の計は一念の微にあり」
と記している。
人生はかすかな一念の
積み重ねによって決まる、というのである。



新潮社を創業した佐藤義亮氏に、
浅草で商いを手広く営む知人があった。
ある晩、その人の店が全焼した。
翌日、佐藤氏が見舞いに駆けつけると、
なんと、知人は酒盛りをして騒いでいるではないか。
気が触れたか、とあきれる佐藤氏に、
知人は朗らかに言った。

「自棄になってこんな真似を
しているのではないから、
心配しないでください。

私は毎日毎日の出来事はみな試験だ、
天の試験だと覚悟しているので、
何があっても不平不満は
起こさないことに決めています。
今度はご覧のような丸焼けで
一つ間違えは乞食になるところです。
しかし、これが試驗だと思うと、
元気が体中から湧いてきます。
この大きな試験にパスする決心で
前祝いをやっているのです。
あなたもぜひ一緒に飲んでください」


その凄まじい面貌は
男を惚れさせずにはいない、と
佐藤氏は言っている。
知人は間もなく、
以前に勝る勢いで店を盛り返したという。

運とツキを招き寄せる法則は古今に不変である。

最後に、つい先日、大和ハウス工業の
樋口武男会長から伺った話を付記する。

「人の道を守らない人間、
親を大事にしない人間、
恩ある人に砂をかける人間に、
運はついてこない」


人生の真理はシンプルである。






その二、運命をひらく



運命とは定まっているものではない。
自ら運び、ひらいていくものである。
そのためには心のコップを立てなければならない。

それをなすのが教育である。
教育は心のコップを立てることから
始まるといっても過言ではない。

まず心のコップを立てる
運命をひらく第一条件である。

第ニの条件は、決意すること。

小さなことでいい。
小さなよきことを決意する。
そこから運命の歯車は回転していく。

そして決意したら、それを持続すること。
花は一瞬にして咲かない。
木も瞬時には実を結ばない。
自明の理である。

次に、「敬するもの」 を持つこと。

「敬するもの」とは
人が心の中に持った太陽である。
すべての生命は太陽に向かって成長する。
心もまた敬するものを持つ時、
それに向かって成長する。

最後に、「縁」 を大事にすること。
縁を疎かにして大成した人は一人もいない。

「不幸の三定義」 というのがある。
脳力開発の第一人者・西田文郎氏から聞いた。

一、 決して素直に 「ありがとう」 といわない人
一、 「ありがとう」 といっても、恩返しをしない人
一、 「ありがとう」 と唱えただけで
恩返しはできたと思っている人


縁のある人に、
この逆のことを心がけていくところに、
運命をひらく道がある。
心したいことである。



その三、運をつかむ



「功の成るは成るの日に成るに非ず。
けだし必ず由って起る所あり。
禍の作るは作る日に作らず。
また必ず由って兆す所あり」


蘇老泉の「管仲論」にある言葉である。

人が成功するのは、ある日突然成功するわけではない。
平素の努力の集積によって成功する。
禍が起こるのも、その日に起こるのではない。
前から必ずその萌芽があるということである。

運をつかむのもまた、同じことだろう。

宝くじを当てる。これは運をつかむことだろうか。
棚ぼた式に転がりこむ幸運というのは、
得てしてうたかたのごとく消え去るものである。
ことによると身の破滅にもなりかねない。
運をつかむには、
運に恵まれるにふさわしい体質を
作らなければならない。

言い換えれば、運を呼び寄せ、
やってきた運をつかみ取るだけの
実力を養わなければならない、ということである。

そういう意味で忘れられない言葉がある。
よい俳句を作る三つの条件である。
どなたの言葉かは失念したが、
初めて目にした時、胸に深く響くものがあった。

その第一は、強く生きること。

強く生きるとは、「主体的に生きる」ということだろう。
状況に振り回されるのではなく、
状況をよりよく変えていく生き方である。
「覚悟を決めて生きる」と
言い換えることもできよう。

小卒で給士から大学教授になった
田中菊雄氏の言葉。

「一生の間にある連続した五年、
本当に脇目もふらずに、さながら憑かれた人のごとく
一つの研究課題に自分のすべてを集中し、
全精力を一点に究める人があったら、
その人は何者かになるだろう」


こういう信念、姿勢が、強く生きる人格のコア(核)になる。

第二は、深く見る

強く生きることで初めて視点が定まり、
深く見ることができる。
深く見るとは本質を見抜くことである。
状況を見抜くことでもある。
ここに知恵が生まれる。

第三は、巧みに表す

巧みに表すことは大事である。
分野を問わず、技術、技巧なくして
よいものは作れない。

だが、それだけではよいものは作れない。
強く生きる信念、深く見る姿勢があって、
初めて技巧は生きてくる。

この三条件はそのまま、よい運をつかむ条件である。

「弱さと悪と愚かさは互いに関連している。
けだし弱さとは一種の悪であって、
弱き善人では駄目である」


哲学者、森信三師の言葉である。
運をつかむ道は人格陶冶の道であることを、
哲人の言は教えている。


その四、人間の花を咲かせる



木が弱り衰えていくのには五つの段階がある、
と安岡正篤師が言っている。「木の五衰」である。

この木の五衰を避けるには、
枝葉が茂ってきた段階で刈り取ること、
即ち省くことだと安岡師は説き、
人間もまた同じだという。

人間も貪欲、多欲になって修養しない、
つまり省かなくなると、風通しが悪くなり、
真理や教えが耳に入らなくなり、
善語善言を学ぼうとしなくなる。
これは「据上がり」で、そうなると「末枯れ」が起こり、
「末止まり」となる。
人間が軽薄、オッチョコチョイになり、進歩が止まってしまう。
揚げ句はつまらない人や事に関わり、
取り憑かれて没落する。「虫喰い」である。

これを「人間の五衰」というと
安岡師は人間の通弊を突いているが、
こういう人に花が咲かないのは自明の理であろう。

『易教』にこういう言葉がある。

「性を尽くして命に至る」

自分が天から授かったもの、もって生まれた能力を
すべて発揮していくことで天命に至る、というのである。
天命に至る道は、
そのまま人間の花を咲かせる道である。
このことを深く肝に銘じたい。

『致知』2018年5月号掲載の稲盛和夫氏のインタビューは、
人間の花を咲かせるための示唆に溢れている。
86年の人生を振り返り、人生で一番大事なものは何かの質問に、
稲盛氏はこう即答されている。

「一つは、どんな環境にあろうとも
真面目に一所懸命生きること…
(私が)ただ一つだけ自分を褒めるとすれば、
どんな逆境であろうと不平不満を言わず、
慢心をせず、いま目の前に与えられた仕事、
それが些細な仕事であっても、
全身全霊を打ち込んで、
真剣に一所懸命努力を続けたことです。」

「それともう一つは、やはり利他の心、
皆を幸せにしてあげたいということを
強く自分に意識して、
それを心の中に描いて生きていくこと。
いくら知性を駆使し、策を弄しても、
自分だけよければいいという
低次元の思いがベースにあるのなら、
神様の助けはおろか、周囲の協力も得られず、
様々な障害に遭遇し、挫折してしまうでしょう。
“他に善かれかし“
と願う邪心のない美しい思いにこそ、
周囲はもとより神様も味方し、
成功へと導かれるのです」



これまで『致知』にご登場いただいた
多くの先達が、同じことを述べている。
人間の花を咲かすための原点がここにある。
我が行いとしたい言葉である。

最後に、花はすぐには咲かない。
凡事の徹底と長い歳月の掛け算の上に
咲くものであることを忘れてはならない。


その五、運と徳



古典に教えがある。

「皇天は親なし。ただ徳をこれ輔く」
-----天は人を選んで親しくしたりしない。
ただ徳のある人を助けると、『書経』にある。

『老子』も同じことをいう。
「天道は親なし。常に善人に与す」

東洋の古典は一致して
運と徳は相関している、と説いている。
その人が持っている、
あるいは培ってきた徳分に応じて、
人はそれにふさわしい運命に出逢っていく、
と教えている。

ではどうすれば、
徳を高くすることができるのか。
それに至る道程を
ズバリ示した言葉が『論語』にある。

「事を先にし、得るを後にするは
徳を崇くするに非ずや。
その悪を攻めて人の悪を攻むることなきは
慝(とく)を修むるに非ずや」


まずやるべきことをやる。
それによってどんな報酬があるかを考えるのは
後回しにする。
それが徳を高めることになる。
自分のよくないところを攻めて、
人のよくないところは攻めない。
それが自分の中に潜んでいる悪を
修めていくことになる、というのである。
拳拳服膺(けんけんふくよう)したい言葉である。

徳を修める上で大事な心得を
『易経』も説いている。

「身に返りて徳を修む」

-----困難に遭う。失敗する。
そういう時は自分に原因がないかを反省する。
それが徳を修めることになるという。

徳を高めるには
徳を損なう道があることも
知っておかねばならない。
『孟子』の言葉に耳を傾けたい。

「自ら暴(そこな)う者はともに言うあるべからざるなり。
自ら棄つる者はともに為すあるべからざるなり」


自ら暴う者はやけくそになる者。
自ら棄つる者は捨て鉢になる者。
そのような者とは共に語り、
為すことはできないというのだ。

自暴自棄になる時、
運命は坂道を転げ落ちるように悪くなる。
心したい。

最後に、
『致知』が四十年の取材を通じて教わった
徳を高める方法
-----それは与えられた環境の中で運命を呪わず、
不平不満をいわず、最高最善の努力をすること。

仕事のジャンルを越えて
一流といわれる人たちは
この一点で共通していた。
運と徳を高める根幹をここに見る。


あとがきより

遇と不遇とは時なり。
『荀子』の中にある孔子の言葉です。
人間の運命は時世のいかんでうまくいく時もいかない時もある。
だが、そこで一喜一憂してはならない。不遇だからと腐ったり落ち込んだり、
調子がいいからと有頂点になったり驕ったり、といったことはせず、
孜々(しし)として自分のなすべきことに努めていく。それが何より大事だ、と
孔子は言っているのです。
これは私たちが生きていく上で知っておいたほうがよい、
古今変わらぬ人生の鉄則と言えます。

-----------------------------------------------------------------------------

『人間における運とツキの法則」藤尾秀昭 致知出版社より引用