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「死中活あり」 到知出版 月刊「到知より」

21.11.26

第三次世界大戦とも言える、出口の見えないコロナ危機の長いトンネルをいかに
歩んでいけば良いのか? 会社創業から45年間の数々の危機を思い起こしながら、
「死中に活あり」を考えてみたいと思います。

東洋学の泰斗・安岡正篤師に「六中観」なる言葉がある。
人物を修錬するための方途を説いた言葉である。

忙中関あり―どんな忙しい中でも閑はつくれるし、またそういう余裕を持たなければならない。
苦中楽あり―どんな苦しみの中にも楽は見つけられる。
死中活あり―もう駄目だという状況の中にも必ず活路はある。
壺中天あり―どんな境涯の中でも自分独自の別天地を持つ。
意中人あり―尊敬する人、相許す人を持つ
腹中書あり―頭の知識ではなく人間の土台をつくる書物を腹に持つ。

「六中観」は安岡師の自作と思われるが、師自身「私は平生窃かに比の観をなくして、
如何なる場合も決して絶望したり、仕事に負けたり、屈託したり、
精神的空虚に陥らないように心がけている」(安岡正篤一日一言)と語っている。
私たちも安岡師のこの姿勢に学びたいものである。

本号のテーマは、この「六中観」から昨今の時流に鑑み、「死中活あり」を選んだ。
改めて「六中観」を読み返してみると、他の五中観はすべて、死中に活を開くために
必要な要因のように思える。

平素より五中観を心がけ、熟達している人物にして、初めて、
死中に活路をひらくことができるのだ、と安岡師は言われているように思える。

松下幸之助も死中に活をひらいた人である。
「小学校中退で丁雑奉公に出て、二十三歳で独立、五十歳で敗戦を迎え、
そして思いもよらなかった財閥指定で追放だといわれたのですから、
絶対納得できるものではありません。素直になろうにも、素直になれない。
けれども素直にならなければ自分は生きていけない」(松下幸之助叱られ問答)

この葛藤の中で松下幸之助は「素直になるしかない」と思い定め、
新たな一歩を踏み出したのだろう。
幸之助の「素直の一段になる」修錬は、ここから始まったのではないかと思われる。
幸之助のこんな言葉がある。
「現実を不定してもいけない。是認してもいけない。容認しなければならない」
現実を否定しても是認しても、現実は変わらない。容認する。
即ち現実をありのままに抱きかかえて、そこから一歩を踏み出すことが大事だ、
ということだろう。

死中に活をひらくために忘れてはならない心得である。

最後に、松下幸之助がその体験からつかみ取った、人生の急所を衝いた言葉を二つ紹介したい。

■「悲運と思われる時でも、決して、悲観し失望してはいけない。
その日その日を必死に生き抜くことが大事。
そのうちきっと、思いもしない道がひらけてくる」

■「九十であろうが百であろうが、生きている間はやるべきことをやる。
人間は行き詰まるということは絶対にない。行き詰まるということは、
自分で行き詰ったと思うだけのことである」

忙中の閑、一人静かに噛み締め、自分の糧としたい。