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APC(人生会議)をともに考える

20.05.26

吹田徳洲会病院地域医療科部長の辻文生先生の学術研修論文の一部を
ご紹介させていただきます。

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◎はじめに
2019年11月25日、APC(人生会議)普及のための厚生労働省のPRポスターが炎上した。
患者役であるお笑いタレントの小藪千豊氏がベッドに横たわり、
「俺の人生ここで終わり?」
などの言葉が並び、死を想起させたことがその理由である。

現在は情報化社会で、SNSなどが浸透し、誰もが意見を述べやすい世の中である。
それはメリットであるが、逆にデメリットでもある。
言いやすくなった半面、批判も受けやすく、みんなの顔色を窺わなければならない
時代ともいえる。

死は決してネガティブな話題ではない。人は最後に必ず死ぬ。
誰もが通らなければならない道である。人生の最終段階をどう過ごすか、という内容は
決して暗い話ではなく、あくまでも今の生き方を前向きに考える機会ととらえるべきだ。
ただ、死の問題はナイーブな領域であり、人によって考え方、受け止め方も多様化しているので
注意が必要である。

◎日本人の死
かつて、日本人の多くが三世代にわたる大家族で暮らしていた時期があり、
多くの人が畳の上で生まれ、死を迎えた。
死は決して特別なものではなくて、身近なものであった。

しかし、わが国では1976年に病院死率が在宅死率を上回り、現在では約8割の人が病院、
残り2割が自宅や施設で亡くなっている。死は、病院などの閉ざされた一部の空間でしか
見られないものとなった。つまり、死が日常的なものから、非日常的なものと変わってきた。
最近は、死に慣れていない、普段死を意識していない人があまりにも多くいる。
死を意識しなくなったのは、平均寿命が延びたことも大きな要因に違いないが、
それだけではない。「人生100年時代」や「アンチエイジング」という言葉がよく聞かれるように
世の中の風潮としても死を見つめ直すどころか、さらに死を遠ざけているようにさえ感じる。

では、あらかじめ死を意識していないとどのような事が起こるか?
老衰の経過として病態が悪くなったとしても、本人、家族は最後には救急車を要請して
病院に行こうとする。現状を受け入れられない心情と、待てないことから救急車を
呼ぶのであろうが、おそらく病院に行けば何とかなるという感情があるのだろう。
普段から延命治療も含め、死をイメージした話し合いが家族間で行われていなければ、
希望を尋ねられても最終的には医師にお任せすることになる。
その結果、時として患者の意に反した延命治療が始まる。基本的に多くの医療者は
「生」に対する教育のみで、「死」に対する教育はないという認識が必要である。
決して延命治療を否定しているわけではなく、患者自身が選択するのであれば何歳であろうと
延命治療を選択すればいいと思う。選択の自由が確保されている点、今の日本の
医療制度はとても恵まれている。

最近は病院医療の問題点について一般市民も徐々に気づいてきた。
病院に終末期を任せればいい時代は終わり、各個人が自分の終末期について
考えなければいけない時代が到来した。

◎医療の役割
「人生は100年時代」といわれるほど日本人の平均寿命が延伸をたどる一方で、
健康寿命の伸びはそれに伴っていない。
私の推進する幸福寿命についていえば、縮まっているようにさえ感じる。

それは、日本に限ったことではなく、世界的な傾向である。
今、多くの方が未来に対して閉塞感を持っており、心の余裕がなくなってきている。
人、そして国自体に心の余裕がなくなれば、当然周りに対しても優しくなれない。
自分中心になり、自然と争い事が多くなってくる。

医療の役割とは、そもそも「幸福を創ること」だと思っている。
今の日本では実際その役割を果たしているだろうか?
私は急性期の臨床現場に長年携わってきて多くの高齢者医療の現場を診てきた。
今まで数多くの意思疎通が取れない寝たきり患者の誤嚥性肺炎に対しても治療してきた。
「治療をすることで本当にこの患者は幸せなのか?」
「今の治療が患者にとって望む治療なのか?」
と自問自答を繰り返してきた。

医療人として誤解を恐れずに言いたい。長く生きることが必ずしも幸せではない。
人は長生きするために生きているわけではなく、生きる目的、そして役割があるから生きているのだ。
しかし、多くの人は自分の人生はまだまだ続いていく、今日と同じような明日や明後日が当然のように
やってくると思いながら日々を不本意に過ごしているのではないだろうか?

人生は長い短いではなく、毎日を精一杯「生き抜く」ことが大切だ。
決して幸せな人生か否かは周りが決めるものではない。
自分が納得した日々の積み重ねこそが幸せな人生というものではないだろうか。

2017年に乳がんで若くして亡くなったフリーアナウンサー小林麻央さんの
手記を引用したい。

『人の死は、病気であるかにかかわらず、いつ訪れるか分かりません。
例えば、私が今死んだら、人はどう思うでしょうか。
「まだ34歳の若さで可哀相に」「小さな子供を残して可哀想に」でしょうか?
私はそんなふうには思われたくありません。
なぜなら、病気になったことが私の人生を代表する出来事ではないからです。
私の人生は夢を叶え、時に苦しみもがき、愛する人に出合い、2人の宝物を授かり、
家族に愛され、愛した、色どり豊かな人生だからです。』

私は、幸せな人生を生き抜いた説得力のある手記だと思う。

◎おわりに
ヒトは幸せになるために生まれてきた。
そして、みんなが幸せになりたいと考えている。
特に今の日本では物質的な豊かさよりむしろ精神的な豊かさを求める時代になってきた。
私は、幸せになる秘訣はシンプルライフだと常に思っている。
それには、常日頃、死を意識することが大切である。
死を意識し、限りある人生と思えば日々を粗末にしてしまうことなく
一日一日がとても貴重に思えてくる。ともすれば忙しい日常生活の中で
埋没してしまう人との出合いや日々の役割を大切に思うようになるであろう。
たとえ平凡な毎日であったとしても、今周りの人たちのお陰で自分が
生かされていることを思えば、自然と感謝の念が湧くものだ。
たとえ持病があったとしても常に病気と闘い続けるのではなく、
時には立ち止まり、病気に寄り添い、なぜ病気になったのか身体の声を聴き、
全身の細胞に意識を傾けることをお勧めする。
そう指導することによって生活習慣、そして生き方が変わる患者を多数経験してきた。
考え方次第で、病気は敵にも味方にもなるものだ。
昨今、心の余裕がない人がとても多くなってきた。
是非一日の終わりや仕事帰りに空をゆっくり見上げる余裕があるか自問自答していただきたい。
自分自身に対して、「今日一日お疲れさまでした」と自然に言える日が来ると、
幸せが間違いなく近づいてくる。

今ACPが話題になっていることは老若男女問わず、すべての人が
死を意識する絶好のチャンスだと感じている。
今の世の中は多様化しているために生き方、死に方、
そして幸せの在り方も多様化している。
情報社会で医療情報を含めて様々な情報が氾濫する中、
適切な情報、自分に合った情報を見つけるのは至難の業ではあるが、
動き出さなければ始まらない。
ただ、こうでなければならないというものではない。
だからこそゆっくり自分自身で選んで決めたい。
移り変わる気持ちも全く問題ない。
とことん悩み続ければいいと思う。
それが人生というものではないか。
特に死の議論には正解がない。人の価値観,死生観は様々、
だからこそ自分で考え続けなければならない。
そのプロセスこそが大切なのだ。
繰り返しになるが、死を考える、意識することによって人生はずっと充実する。
一人でも多くの人が、最幸の毎日、人生を歩んでいただきたい。
そして人生最期に自分の理想の死を迎えることができれば、
医療者としてこれほど幸せなことはない。

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全文を読まれたい方は、吹田徳洲会病院 地域医療科のホームページに入ってください。
HPはこちら


2018年厚労省はフレイル対策をはじめとした高齢者の特性に応じた
保険事業の本格実施を始めました。





健康寿命を伸ばす事は勿論大切ですが、新型コロナ禍の閉塞感で
身体だけでなく心の不調を訴える人が益々増えている現在、
医療の役割とは「幸福を創造する事」と考えて臨床の現場に立たれている
辻先生のお言葉をしっかりと噛みしめて幸福寿命についても
考えたいと思います。